私の所属している”ゆにわ”という団体で6月末に三嶋大社に団体参拝します。

ゆにわでは、参拝そのものも大事だけど何より「日常における準備」が重要であると捉えてます。

毎年「今年は~神社」という感じで参拝する神社が変わるのですが、その神社のテーマ・神様に応じて日常でもアンテナを立てながら過ごしていって、実際の参拝で神様に対して報告するといった過ごし方をします。

神社参拝を通じて何か得よう!とか功徳!とかあんまり重要視してなくて(当然、あるかもしれませんが!)

自分自身のテーマと向き合うことを重視してます。

こんな感じなので、

いわば”人生ガチ勢”のような方しか参加しません。笑

そこで今回の三嶋大社ですが、大山祇神様が祀られてます。

大山祇は、イメージとしては大きな器。

個人的な捉え方としては、どんなヘンテコなことを言われたりイラつくことが怒っても、そこに流されるのではなく許す。受け入れる。仏のような心を持つというイメージです。

こういうこと話すと、「え?そんなんでいいの?甘やかすだけじゃないの?」と突っ込みたくなる方いるかもしれませんが、結局人は人を変えられないので、自分を変えるしかないんです。

自分自身の受け止め方を変える。いつもだったらイラつく事に対しても、そこに流されずに、寄り添って、受け入れていく。逆にそうしていかないと、イラつく現象は消えません。

人生というのは、こういった許せない問題に対して心と向き合い続ける事によって、徐々に許せるようになっていくゲームとも言えるわけです。

参拝を決めた時からテーマが現れる言われていて、実際僕も参拝を決めてからは、器が試されるような現象がいろいろ起きてます。

一つ一つと向き合って乗り越え、参拝に備えていこうという思いを持っているんですが、

この記事を書いたのも、神社チャンネルでとある動画が公開されていたからなんですね。

神道の大家とも言える鎌田東二先生の動画です。

これは是非皆さんに見ていただきたいなと思いまして。

こちらの動画で、掃除こそがフトマニであるという話がありました。

フトマニというのは、言霊学の教えでいうと「万象の源」です。

全てを生み出す存在であり、全てでもあります。

これをスピリチュアルの世界ではアカシックレコードと呼んだりするわけですが、時空を超えてあらゆる全宇宙の情報が含まれているものです。

神体道でも掃除が8割と伝えていますが、目の前の空間を祓い清めていくことが、自分自身を清めていく事にもつながる。

つまり、掃除をする事で自分自身が清まって、自分が消えます。

そして自分が消えていくと、そこにはフトマニがあると。全てがある。

今の社会はとにかく、何か肉付けをしようとします。

資格を取ろうとしたり、経験を積もうとしたり、スキルを得ようとしたり・・

ですが本質は、そういったあらゆる欲望や名誉を祓い清めたところにふとでてくるもの。それがフトマニであり、本当の自分であるという事ですね。

三島由紀夫に関するお話もありましたが、彼の死生観を考えてみても、生きるか死ぬかのギリギリを生きていった方だと感じています。

とにかくこの瞬間に対して無我夢中だったと。

無我夢中というのは、まさにフトマニであるという事ですね。

我を忘れて目の前のことをする。

そんな瞬間の繰り返しの先に、三嶋大社の大いなる働きがあるのかもしれないなと感じました。

大山祇神様